60代半ばの男性が、お寺に来られました。
実は、子どもさんは二人で、子どもたちに迷惑を掛けたくないと言うことで、近くに墓を建てたそうです。
ところが、先日テレビを見ていたら、「生前に墓を建てると良くない。」と言っていたのを聞いて、
その日以来、心配で心配で、夜も寝られないとのこと、それでお寺に相談に来たそうです。
勿論、誰しもいつまでも元気で、幸せに、暮らして行きたいと願います。しかし、だんだんと年を
とってくれば、もしもの時のことを考えておくことも大切でしょう。
まして子どもたちに、迷惑を掛けたくないという親心から、自分のお墓を建てたことが、何故悪いのか?
こちらが理由を聞きたいくらいです。
悪いことがおきるとか、縁起でもないと言う程度の理由でしょう。
もし仮に墓を建てなければ、絶対に悪いことも起きなければ、誰も亡くならないと言うことであれば
生前に墓を建てない方がよいかもしれません。しかし現実は、墓を建てようと立てまいとに関わらず、
我々のいのちは所詮、はかないものです。毎日、年もとるし、病気にもなります。
そしていつかは必ず死んで行かねばなりません。
そうであれば、少しでも、我が子の負担を少なくしておくことは、決して悪い事ではありません。
無責任な、テレビの一言一言に振り回されて、睡眠不足になったり、病気になる前に、しっかりお寺に参って、
仏さんのお慈悲に触れてみて下さい。
もっともっと大切なことに気づかされて行くことでしょう。
礼拝の対象は阿弥陀如来であり、浄土真宗では、このいのちが尽きた時には直ちに、
阿弥陀如来と同じ仏になると言うことを、いつも聞かして頂いているわけです。
仏教は仏となる教えで、決して骨となる教えではありません。
ただ心情的に、唯一かたちとして残った遺骨ですから、遺族としては大切に守って行きたいという
気持ちも、勿論理解できます。その遺骨を通し、ご本尊である阿弥陀如来に、手を合わせて行かれる
のであれば、問題はないでしょう。
よく「分骨すると亡くなった人が、かわいそうだ」というようなことを聞きますが、生身の肉体を
切り刻むわけではないのですから、心配いりません。
浄土真宗でも熱心な地域では、分骨し、一部を、京都の大谷本廟の親鸞聖人と同じ墓所に納める
という習慣もあります。
又お釈迦様の骨も、分骨され世界各地に仏舎利塔が出来、仏教が広まって行く大きな縁となって
います。
●注意点
ようでは良くありません。家族ともよく相談して下さい。
問題なのは、亡くなった方が、盆の時期この娑婆に帰って来るという通仏教の考えで、
「どうか迷わないでこの提灯を頼りに(目印に)帰ってきて下さい。」という意味での
提灯ではないと言うことです。
特にこの時季、仏壇屋等で、「初盆の家族は、白い提灯を求めて下さい。」等という
セールストークに惑わされないで下さい。
また地域によっては、親戚が初盆の家庭に盆の提灯を贈る、習慣のある地方もあり、
せっかく頂いた親戚の思いを、有り難く受け止めることも大切でしょう。
浄土真宗としては、365日の内の三日間しか帰ってこないような仏さんではないと言うことです。
亡くなって行かれた方が、まるで日頃は迷いや苦しみの世界にいて、お盆の三日間だけその苦しみから
解放され、この世界に帰ってくると言うような、受け止め方はしません。
迷いがあり苦しみの中にいるのは、あくまでこちらの方ですから、その私のことを常に心配し
照らし続けていて下さる御仏の心を、燈明になぞらえ、大切に供えてゆく気持ちの方が大切でしょう。
久しぶりに電話での問い合わせがありました。
「遺影はどこに掛ければよいですか?」と言う質問ですが、通常49日法要までは、中陰壇に
遺骨と一緒にお仏壇の側に安置しておきます。49日法要が終われば中陰壇もかたづけます。
(葬儀屋さんに引き取っていただけば良いでしょう)
遺影の額の飾り物も取り外し、葬儀屋さんに一緒に持ち帰って貰って下さい。
いよいよ遺影の掛け場所ですが、仏壇の真上は避けて掛けて下さい。お仏壇はご本尊を安置する
大切な場所ですから、その上に物を置いたり、遺影を掛けることは控えて下さい。
今日の質問者は知り合いから、仏壇と同じ部屋に遺影を掛けてはいけないと言われたそうですが、
逆に何故いけないのかこちらが聞きたいくらいです。
仏間に亡き人の遺影を掛け、その方を偲びながら、ご本尊である阿弥陀仏に手を合わせて
いくのであれば、何の問題もないでしょう。
尚、お仏壇の中に写真を入れておられる方がおられますが、正式には仏壇の中には、
写真は入れない方が良いでしょう。
大切なことは、365日のうちの3日間しか帰ってこないような仏ではないということです。
どちらかというと、365日のうちの3日間くらいしか仏さんの方を向かないのがこっちの側で、
その私のことを、何時でもどんな時でも、心配し照らし続けていて下さるのが、
阿弥陀如来という仏様の大きな慈悲の心です。
お盆という仏教行事を通し亡くなって行かれた方を縁として、その仏縁に出逢わせて頂くことが
一番大切なことです。従って、7月だろうが8月だろうが、そんなことはどっちでもいいんです。
「厄払いしてもらえますか?」と、電話で女性からの問い合わせがありました。
私としては、たくさんお寺がある中でせっかく西恩寺に電話して下さったことですから、
お受けしてさし上げたいのは山々ですが、果たして厄払いのお参りといわれましても、
拝んで本当に、その人の難を払うことが出来るのかと問われましたら、答えは「出来ません」
馬のしっぽのようなものでも振りかざして「ヤーー」とでも言えばそれなりに雰囲気はでるのでしょうが・・・
せっかくのご縁ですから調べてみましたら、「和漢三才図会」(寺島良安著)の説によれば、
男性は25歳、42歳、61歳
女性は19歳、33歳、37歳を厄年と言うそうで、云々
それでは何故25歳を厄年というのかといえば、陰陽のうえから言えば二十五の二は陰で五は陽だそうで、
陰が上にあって、陽が下にあるのは、男の陽性に反することになるのでこれを忌むのだそうです。
また語呂からいえば二五は(ふい)と読まれ(不意となって)不意な出来事が起こるとしてこの年を嫌うに
至ったとのこと。 女性の十九は「重苦」となって苦しみが重なるとか何とか・・・
もうええ加減にして欲しいですよ・・・でも振り回されるんですよねー
毎朝8時前に公共の電波を使ってテレビで「今日の運勢は・・・・」「何色が吉とか」
今日という日を迎えることが出来た事を感謝し、精一杯生き抜いていこうとするそのスタートの時に、
いきなり訳のわからない事を毎朝「ああだ、こうだと」流して欲しくないものです。
厄年の話に戻りますが、身体の成長面とか、生理面とか、精神面から考えれば、
それなりに節目になる年齢ではありますから、充分注意されてご活躍されれば宜しいかと思います。